私の終活(2)人生の回顧

 私は後ろを振り向かないように生きてきた。それは避けていたわけではなく余裕がなかったのである。現役時代はその時々を生き抜くことに精一杯であった。

 今は隠退して七六年の歳月を振り返り悲喜こもごもの場面を回顧している。私はそれも終活の一つであると思っている。 

 私は死ぬと不要になる物、家族の迷惑になる物の整理を始めている。私が逝った跡を見苦しくないようにしておきたいのである。それは体力がある間に済ませなければならない作業である。

 全ての人が裸で生まれる。そして裸で死んで逝く。神の国には世俗の朽ちる物を一切持ちこめないのである。人が蔵に蓄えた物も体に蓄えたものも知恵も知識も想い出も全て朽ち果てるものである。

 私は高価な物を持っていないので惜しまず捨てられる。しかし捨て難いのは想い出である。良い想い出も悪い想い出も捨て難い。

 私は人生の節々で多くの人たちと出会い教え導かれ支えられて来た。改めて人生を振り返ると、私は感謝の足りない人間であり、過ちを率直に詫びることも足りない人間であったことに気付かされて恥じ入るばかりである。

 

ー聖句ー

 「 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」  1コリ15章50節

私の終活(1)老いの現実

 私は平均年齢に達していないが、知力や体力の衰えは明らかに思考や行動に表れているのを認知できる。私は歳相応に衰えるのを抗わないで受け入れようと思っている。しかし、生きている間は、歳相応に心身の健康を維持したい。私は死ぬ直前まで食事、入浴、排泄、着替え等、生きるための基本的所作を他人の世話にならず自力で行いたいのである。

 私は住み慣れた家で死ぬことを望んでいる。私は延命治療を望まない。我が家で出来る治療を受けながら死を迎えたいのである。しかし家族が苦労することなので病院で死ぬことを受け入れる柔軟さを失ってはならないと思っている。

 現実は、死に逝く者の意志に反して、本人が行きたくないところに連れて行かれるのである。そして、病院や老人施設が死に場所となるのである。我が家には死んでから遺体で帰ることになる。それは止む無き仕儀なのであろう。

 

ー聖句ー

「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ヨハネ21章18節

                            

 

 

 

 

ご挨拶 

 私は福島県で生まれ今年2月に喜寿(77歳)となりました。日本基督教団の教会の牧師を70歳で隠退し夫婦で千葉県茂原市に移住しています。現在は教団の茂原教会で日曜日の礼拝を守っています。

 日本人男性の平均寿命は81歳、女性は87歳と言われています。私は平均寿命まで4年と迫っています。これからは健康に気をつけながら、一日一日感謝の思いを深めながら、人生の最期に備え(終活)て過ごしたいと思っています。

 私は最近明らかに忘れっぽくなって来ました。記憶力と注意力は低下してきています。ブログは予防と活性化の期待をこめて始めることにしました。

 私はキリスト信仰と聖書の言葉の解き明かし等を、書けるときに、思いつくままに書きたいと思っています。ブログ名は何にしようかと迷っているうちに私の意志に関係なしに「tm1725tmの日記」となりました。書ける日に書きたいことを書くブログと思えば良いかなあと思ってそのままにしました。