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長いことお休みしていました。これから、聖書、人生、自然、その他諸々を思いつくままに書こうと思っています。しかし、老化は自然の流れですから逆らわないように生きたいと思います。そして、人生の最期を生きていることを日々忘れず柔和に過ごしたいと願っています。
聖書の言葉
「 すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。」コヘレト12章13節
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私の終活(8)神の国
神の国は人間の知恵や知識で思い描けない。神の御子イエス・キリストが世に告知され御力によりその一部をこの世で具現された。それを目の当たりにした人たちは驚嘆し神を讃美したのである。
神の国では、病める者、肢体の不自由な者は、完全に癒されて自由を得る。死んで朽ち果てる肉体は、永遠の生命と霊の体を与えられるのである。そして全ての人が二度と死の力、罪の力に支配されることはないのである。
私たちの朽ちる体、汚れた体、しぼむ体は主イエス・キリストにより聖化されるのである。従って、私たちは神の国では互いに聖化された姿を見ることになる。
私は自分を顧みるに、神がこの世で結んで下さった親と子、夫と妻、父と子の絆を豊かな愛と思いやりで紡ぐことに怠慢であったことを告白しなければならない。私は神の庇護の下に生きながらいまだに自己愛から抜け出せないでいる。
実に私は惨めな人間である。私は主イエス・キリストに出会わなかったら、己の罪に気づかず、悔い改めることもなく死ぬ人間であった。
私は主イエス・キリストに出会い、救われたことにより、罪人であることを認め、悔い改めの日々を生きて、神の国への復活を信じて死ねる人間に変えられている。実に幸いなことである。しかし私の朽ちる肉体は罪に蝕まれていて死ぬまで罪の悪臭を放ち続けるのである。
神は主イエス・キリストを信じる者の罪を赦して下さる。朽ちる体を永遠の命と霊の体に変えて下さる。そして神の国へと復活させて下さるのである。私たちは死人の中から復活することにより、朽ちない者とされ、聖なるものに変えられる(聖化)のである。
神の国に復活して聖化された状態は、私たちの知恵や知識や想像力では計り知れないことである。私たちの願いや想像を膨らませると真実から遠くなるだけである。ゆえに今は聖書に記されていることを信じて満足しなければならない。
ー聖句ー
「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」
1コリント15章52節
「 しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。」 1コリント2章9節
「 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」 マタイ11章5節
「 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を讃美した。」 マタイ15章31節
「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」 ルカ20章36節
「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」 マルコ12章25節
「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」 1ペトロ1章3〜5節
「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」。
黙示録21章4節
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私の終活(7)キリスト者の死
私は死に臨む時、不安と恐れと孤独と苦痛に、苛まれるかも知れない。しかし、それは病に苦しむ幼子が母の腕の中で病と闘う様の如くである。主イエス・キリストは死に逝く私を孤独に捨て置かれない。
ステパノが殉教の死を遂げる時に主イエス・キリストはステパノに見えるようにお姿を現され御手を広げて御国へと迎えいれて下さった。キリスト者の死は孤独ではないのである。
私の臨終に立ち会ってくれる愛する者たちは、私が臨終に立ち会った時にそうであったように、私が息耐えるまで見守る他に何もなし得ないのである。臨終が確認されると妻や子供や孫たちは保ち続けた絆を切られる痛みや悲しみに動揺することであろう。それは、自然な情である。
私の願いは私の死に逝くさまを見て、神が命の息を引き取られたと悟ってくれることである。神が人知では計り知れない神の御業を行っておられることを悟ることである。神が御力により私の命の息を引き取って下さるのである。
そして神は主イエス・キリストを信じる者を死人の中から復活させ、霊の体を与え、神の国で生きるものとして下さる。それは、主イエス・キリストが約束しておられることであり確かなことである。
ー聖句ー
「 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。」 使徒7章55~56節
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私の終活(6)死に伴う希望
私は牧師の職務で多数の葬儀を執り行った。その度に、聖書を説き明かして遺族に慰めと希望を語った。
聖書は人間の死の意味と死後の希望を記している。主イエス・キリストが死の闇を照らす光となり、死の闇の不安を取り除き、御国への復活の希望を持たせて下さるのである。
神はキリストの福音を聞いて信じる者を全て神の国へ迎え入れて下さる。しかし、この世にはキリストの福音を聞く機会なしに死ぬ者も多数いる。神はその人たちを見捨てることなく御心に留め憐れんで下さるに違いない。
聖書は死なずに天に移された二名の人を記している。エノクとエリヤである。エノクとエリヤは死ぬことなしに御国に移された。それは神の御心と権威により特別に行われたことである。私たちは死んでから御国へ移されるのである。
ー聖句ー
「 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」 ヨハネ12章46節
「 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」
ヨハネ5章24節
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」
1テモテ2章4節
「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」 ヘブル11章5節
「彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐中を天に上って行った。」 列王記下2章11節
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私の終活(5)死は不自然なもの
人はなぜ死ぬのだろうか。この問いの答えは哲学も化学も持っていない。宗教だけが答えをもっているのである。それが宗教の存在意義である。
私たちの人生に伴う死と死に対する不安と恐れは若くて勢いのある間、仕事が多忙の間、健康に自信のある間は封印出来るのかも知れない。しかし、封印は死が近づくにつれ解けてしまう。死の不安や恐れは人の意志力でも、賢者の知恵でも、王の力でも、富の力でも、人の愛でも抑え込めないのである。
人は死ぬことを自然な流れであると考えている。しかし死ぬことが自然なことであるなら、死を不安なく怖れなく淡々と受容できるはずである。そう出来ないのは、人の死が不自然なものだからである。
人は皆一人で死ぬのである。人は息絶えるまで己のみで不安と恐れと苦痛に耐えなければならない。臨終の場に立ち会う人たちが成しえるのは、沈黙して死に行くのを、見守ることであり、悲しみに耐えることである。
そして人は、死を確認して、人生の空しさを感じながらも、この人は一切の苦痛から解放されたと言って安堵するのである。
死者は墓に埋葬される。人は例外なく死んで墓に葬られる。私が、葬られる墓は、八柱霊園にある我が家の墓である。その墓には、すでに、私の長男真理、義父三四郎、義母マツの遺骨を埋骨してある。(納骨してある)。
昔から死者の葬儀と埋葬は鄭重に行われて来た。特に聖書に記されているイスラエルにおいてはそうである。それは死者に対する儀礼的な意味だけではない。昔から人間は死んだら消滅してしまうのではなく、死人から復活して神の国で生きるのだと信じていたからである。
死人からの復活は古からの希望であった。それは古の死者の葬りに表されている。それが顕著なのは王たちの墓である。王たちは彼の世でも豊かな生活を望みこの世で蓄えた宝物と共に墓に葬られたのである。
ー聖句ー
「 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」
ロマ5章12節
「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」 ヘブル11章16節
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私の終活(4)死に伴う恐れ
私は幼い子供の頃から死ぬことを恐れていた。理由はわからなかった。死人が墓に葬られるのを見たこともない、悪いことをすれば死んだら地獄にいくと脅かされた記憶もないのである。それどころか私の子供時代は、戦争が終わり、生活は苦しくても、大人も子供も死から生への希望に溢れていたのである。
私は戦中に生まれ戦後を生きることになった。日本は昭和20年8月に敗戦を認め終戦となった。私は3才であった。戦時中を生きた親たちの苦労は戦後の平和と経済成長の時代を生きてきた私などの苦労の比ではない。終戦の前後は、日本中が食料難であり飢えに苦しんだのである。
それから平和憲法が制定された。そして民主主義の国造りの時代が始まったのである。日本の戦後復興は死の不安から解放された自由と喜び、労働や学びや努力が報いられ実を結ぶ喜びを原動力にして成し遂げられたのである。
しかし、朝鮮戦争が1950年に勃発すると、日本はアメリカに追従することによる軍事産業によって経済発展の時代にはいった。日本は民主主義を揺ぎ無くする前に経済を優先する国となったのである。
それでも日本は自由と平和を享受する国を曲がりなりにも保って来た。私は戦争をしない平和で自由のある時代を生きて幸いだったと思っている。
しかし私の死の不安や恐れは消えず燻っていたのである。その理由はキリストの教会で聖書を学ぶことで明らかになった。死ぬことの恐れは、私の内側から泉のごとく湧き出ていたのであった。それで世の中が平和な環境となり、その中で生きても、死の不安や恐れは消えなかったのである。
それは私の内にある罪(神に背く生活)から生じる恐れだったのである。
ー聖句ー
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」ロマ6章23節
「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」 1コリ15章56節
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私の終活(3)終活の本分
終活の本分は、死の意味を知ることであり、死後を知ることであり、死後の復活を確信することである。
誰でも高齢者になれば、自分の死を意識するようになり死後についても考えるようになる。若年時代は死や死後のことを殆ど考えない。死を考えるのは非日常的なことなのである。
それが私の歳になると日常的なことになる。そして多くの人たちが宗教に関心を持つようになる。
宗教は死の意味や死後を知る手がかりになるからである。確かに宗教はいずれも死の意味や死後について語ることを本分としているのである。
私は日本聖書神学校を卒業してから、日本基督教団の正教師となり、40年間牧師として教会に仕え、聖書を解き明かし、主イエス・キリストの福音宣教に仕えてきた。
聖書はイエス・キリストを唯一の神の御子であり唯一の救い主であると証言するのである。また、イエス・キリストは父なる神を知る唯一の方であり、神の国から来臨された唯一の方であり、神の国を知る唯一の方であると証言している。
そして主イエス・キリストは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と言われ、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と全ての人たちを招いておられるのである。
ー聖句ー
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」ヨハネ11章25、26節