私の終活(5)死は不自然なもの

 人はなぜ死ぬのだろうか。この問いの答えは哲学も化学も持っていない。宗教だけが答えをもっているのである。それが宗教の存在意義である。

 私たちの人生に伴う死と死に対する不安と恐れは若くて勢いのある間、仕事が多忙の間、健康に自信のある間は封印出来るのかも知れない。しかし、封印は死が近づくにつれ解けてしまう。死の不安や恐れは人の意志力でも、賢者の知恵でも、王の力でも、富の力でも、人の愛でも抑え込めないのである。

 人は死ぬことを自然な流れであると考えている。しかし死ぬことが自然なことであるなら、死を不安なく怖れなく淡々と受容できるはずである。そう出来ないのは、人の死が不自然なものだからである。

 人は皆一人で死ぬのである。人は息絶えるまで己のみで不安と恐れと苦痛に耐えなければならない。臨終の場に立ち会う人たちが成しえるのは、沈黙して死に行くのを、見守ることであり、悲しみに耐えることである。

 そして人は、死を確認して、人生の空しさを感じながらも、この人は一切の苦痛から解放されたと言って安堵するのである。

 死者は墓に埋葬される。人は例外なく死んで墓に葬られる。私が、葬られる墓は、八柱霊園にある我が家の墓である。その墓には、すでに、私の長男真理、義父三四郎、義母マツの遺骨を埋骨してある。(納骨してある)。

 昔から死者の葬儀と埋葬は鄭重に行われて来た。特に聖書に記されているイスラエルにおいてはそうである。それは死者に対する儀礼的な意味だけではない。昔から人間は死んだら消滅してしまうのではなく、死人から復活して神の国で生きるのだと信じていたからである。 

 死人からの復活は古からの希望であった。それは古の死者の葬りに表されている。それが顕著なのは王たちの墓である。王たちは彼の世でも豊かな生活を望みこの世で蓄えた宝物と共に墓に葬られたのである。

 

ー聖句ー

 「 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」 

                                 ロマ5章12節                                   

 「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」 ヘブル11章16節